2012年



ーー−2/7−ーー 高橋達郎氏の思い出


 詩人の尾崎喜八を偲んで、命日の2月4日前後に蝋梅忌(ろうばいき)という会合が都内で催される。今年はちょうど土曜日と重なったので、4日に開催された。没後すでに40年近く経つが、全国からファンが集まり、盛大な会となる。尾崎喜八と言えば、キーワードは山、自然、そして音楽ということになろうが、この会に集う人々も、その方面の造詣が深い。誠に気持ち良く、和気あいあいとした雰囲気のひとときを楽しませて頂いた。

 その会合の折り、懐かしい人の写真を見つけた。会場の一角に設けられた資料展示のファイルの中にである。高橋達郎氏。多少年齢の開きはあるが、尾崎喜八と親交が深かった人物である。ご自宅が北穂高に有ったので、私も何度か遊びに行ったことがある。そのお宅は、かなりの部分を自ら手掛けられた、レンガ造りの洋館で、素敵な建物であった。

 ご自宅の納屋を手直しするということで、大工作業の手伝いに出向いたことがある。昼飯の時刻になったら、氏がラーメンを作ってくれた。山小屋の主人だった氏は、料理も得意だった。畑へ出て、ネギを無造作にぶら下げて台所へ戻り、トントンと刻んで薬味をこしらえた。その豪快なやり方が、印象的だった。洋館の薄暗い食堂ですすったラーメンの美味しさは、いまだに思い出す。

 氏は生涯に二件の山小屋を建てた。建てたと言っても、金を出して作らせただけと言うのではない。自ら全身全霊をつぎ込んで作り上げた、言わば氏の作品である。一つ目は入笠山、二つ目は霧ヶ峰である。その霧ヶ峰のヒュッテ「ジャベル」にも何度かお邪魔した。落ち着いた雰囲気の、魅力的な建物であった。林の中の渓流の傍らにたたずむ姿は、まことに古き良き時代の、オシャレな山小屋といった趣である。

 達郎氏を乗せて、安曇野からトラックでジャベルへお送りしたことがある。道中、いろいろなお話を伺って楽しかったのだが、その正確な語り口に驚いた。山岳の話も、氏の得意分野であったが、80歳を超えた年齢だったにもかかわらず、車窓から見える山々の、細かい名称まで正確に述べられた。

 氏は平成12年に亡くなられた。その葬儀には、大勢の弔問客が集まり、会場の椅子が足らず、立ったままの人が入り口の外にまで溢れていた。弔辞は、尾崎喜八の娘の栄子さんが述べた。私はそのお話を聞くうちに、なんとも知れない感慨が湧き起こり、思わず落涙した。

 氏は、画家の熊谷守一とも親交があった。生涯弟子を取ろうとしなかった画家の、実質的には唯一の弟子ともいうべき関係だったようである。氏のお宅で、熊谷守一の直筆の絵を何枚か見せて貰ったことがある。「どういう経緯でお持ちなのですか?」と訊ねたら、身の回りの世話をするたびに、「お礼をしたいが金が無い。これで良かったら持って行け」と渡されたものだったとか。

 「尾崎喜八さんにしろ、熊谷守一さんにしろ、あれほど偉大な芸術家が、よくもまあオレみたいな若造を相手に遊んでくれたものだ」と氏が述べた。私が、「そういう関係を結べた理由は何だったんですか?」と聞くと、氏はギョロリと目を向けて、「そりゃあ、私が便利に使える男だったからでしょう」と言った。

 氏とお付き合いさせて頂いた頃、氏は80歳台、私は30台の後半。親と子以上の年齢差であった。にもかかわらず、氏は若造の私に向かって、いつも真摯に、そして暖かく接して下さった。トレードマークの口髭と、奥深い光をたたえたギョロリとして優しい目は、今でもまぶたによみがえる。
 



ーーー2/14−−− 過酷なスキーから学んだこと


 友人に誘われて、久しぶりにスキーをした。どれくらい久しぶりかというと、2006年と2008年にそれぞれ一回ずつ、3月に滑って以来である。テニスやゴルフといったスポーツなら、これだけ間が空いてしまったら、もはや止めてしまったと同じだろう。

 この地に越してきた当初は、スキー場に足を運んだ時期もあった。しかしそれは、極めてイージーなものであった。最も近いスキー場まで、30分もあれば行ける土地柄である。気候が良くなった季節に、晴れた日を狙い、空いている平日に出かけたものだった。それはそれで楽しいものではあったが、スキーと呼ぶにはあまりにもヤワなものであったと、今回のスキーを通して思い起こされた。

 初日は、富士見パノラマスキー場で滑った。私が、未経験のスキー場に行きたいなどど気まぐれを言ったので、友人が安曇野へ来る途上のスキー場を選んでくれた。それまでの寒い天気から一転して、前々日から暖かい陽気となり、雨が降った。予定を一日ずらして決行した当日は、寒さが戻り、天気もそこそこだった。しかし前日までの雨は、スキー場にも降ったのだろう。それが凍って、スロープはガリガリのアイスバーンだった。4年ぶりのスキーとしては、かなり厳しいコンディションだった。

 翌日は八方尾根。冬型の気圧配置が強まり、風こそなかったが、終日雪が降った。視界が利かない状態で不整地を滑るという、これまた厳しいスキーになった。天気が良い日に、綺麗に整備された斜面を滑るスキーしかしてこなかった私には、突然白い魔界に放り出されたような感覚になった。視界が悪くて雪面が見えない。スピード感覚が狂う。体のバランスも取れない。しかも雪面は荒れている。友人は経験豊富だから、スイスイと下って行く。私がノロノロして待たせては申し訳ない。それで、焦る。気ばかり焦っても、恐怖心から体が遅れる。スキーの板がバラバラで、コントロールができない。転倒するのを防ぐのがやっとの状況。楽しむべきスキーが、苦行の様相を呈してきた。我ながら、情けなくなった。

 見かねた友人が、アドバイスをくれた。気持ちを前へ持って行け、弱腰になったらダメだ。お前の実力なら、気持ちさえ切り替えれば、しっかり滑れるはずだ、と。

 そのアドバイスで、目が覚めた。そんな精神論でどうなるものでは無いと思われるかもしれない。しかし、スキーはメンタルなスポーツなのである。友人の言を借りるなら、そこが一番重要なポイントとのことだった。
 
 そのアドバイスに従い、技術的な点も見直し、少しずつ改善を加えたら、調子が出てきた。天気は良くならなかったが、後半は楽しい気分で滑ることができた。前半のみじめな状況のまま終わっていたら、大いに禍根を残しただろう。困難を克服して立て直すことができたのは、望外の喜びであった。仮にこの日、天気に恵まれ、ゲレンデコンディションが良かったなら、楽しくはあっても、これほどの充実感は体験できなかったと思う。

 スキーは、重力で下に滑る行為である。しかし滑るに任せていたら、どんどん加速して、危険な状態になる。そこで、適度な制御が必要となる。それがスキー技術の本質である。重力を利用して滑り下りながら、重力に抗してスピードを制御する。その相反するものの間を行きつ戻りつするのが、スキーなのである。

 重力加速度を、これほど体感できるスポーツが、他にあるだろうか。その加速が、恐怖心を生み出す。たぶん個人差はあるのだろうが、私はそれを過剰に感じるタイプの人間のように思う。こういう人間は、恐怖心から体が遅れる。すると、スキーが言わば勝手に走って、コントロールができなくなる。

 弱腰で当たろうが、積極果敢に当たろうが、重力に差は無い。遠慮をしたからと言って、手加減をしてくれるわけでは無いのだ。重力を制御するには、積極的に場に身をさらし、真正面から向かい合う覚悟が必要だ。それは無謀な行為を意味するのではない。慎重な配慮をした上で、自らを励まし、恐怖を克服する勇気を実現する行為なのである。その決意を持った者にのみ、自然は楽しみを与えてくれるのだ。

 ここ数年、スキー場から足が遠のいて、スキーに対する関心も、ましてや情熱も消え失せていた。今回も、友人と一緒に、ほどほどに楽しく、怪我をしないように滑れれば良いと、その程度の目論みで臨んだスキーだった。しかし、厳しい状況が事態を一転させた。想定外の困難に直面し、スキーというものを、そして自分自身を見直すことになった。その結果、大切なものに気付かされた。たかがスキー、たかが遊びとは、あなどれない。




ーーー2/21−−− 蘇ったレコード再生


 数年前からレコードを聴かなくなった。アンプが壊れたからである。それまでは、毎日の夕食時に、とっかえひっかえレコードを聴いたものだった。それが出来なくなって寂しくなったが、そのうち諦めて忘れた。

 昨年の秋、知り合いの工務店の親方から、電気設備屋さんを紹介された。その方は、オーディオからパソコンまで、家電製品を何でも直せるとのことだった。そこで、壊れたアンプを思い出し、修理をしてもらうことにした。と言っても、本業の傍らの、趣味の領域らしい。期限を設けられては困ると言われた。そのアンプが、数か月経った先日、戻ってきた。

 ちゃんと直っていた。レコードプレーヤーに接続したら、何事も無かったかのように音が出た。ただし、古くなって傷んでいる部品があり、もはや入手できないので、誤魔化して使うしかないとのコメント通り、時々雑音が発生する。それでも、95パーセントは問題無い。再びレコードが聴けるようになった喜びは大きかった。

 その日以来毎晩、パソコン作業のBGMとして、レコードを聴いている。懐かしいレコードを聴くのは楽しい。独身時代に、寮の友人から借りたままになっているアルバムもある。そういうのを聞くと、その当時の記憶が蘇る。今の若者が聴いたら、ピンと来ないような楽曲でも、昔のモノは無条件に懐かしい。

 世の中がレコードからCDに変わって、廃盤(復刻されない)になったものが多い。見方によっては、ほとんどが廃盤になったと言えるだろう。そういうものは、残されたレコードを聴く以外に、接するチャンスは無い。クラシックのジャンルであれば、同じ曲を様々な演奏家が録音しているから、その曲が聴けなくなるという事はまず無い。特定の演奏家のアルバムは消えてなくなっても、例えばベートーベンの「運命」が聴けなくなるという事態は起こらない。

 それに対して、ポップスやジャズの場合は、オリジナルなもの、個人的なものであるから、復刻されなければ、楽曲そのものが終わりである。世の中の何処かには残っていても、それに辿り着けなければ、二度とその音楽を耳にすることはできない。私が所有しているレコードたちも、買った当時はありふれたものだったろうが、今となっては貴重なものと言えるかも知れない。

 ところで、アンプが直ったので、オーディオに対する関心が若干蘇り、ネットでいろいろ調べてみた。

 レコードを聴くには、昔のアンプを使うしかないと思っていた。現在主流となっているCDプレーヤー用のアンプは、レコードプレーヤーには使えないからだ。ところが、そのための装置が販売されていることを知った。フォノイコライザーという装置で、これを使えば、CD用のアンプでもレコードを聴けるらしい。

 自宅で使っているプレーヤーの針が消耗したら、交換用の針は入手できるのだろうか? それも調べてみたら、市販されていることが分かった。調べるためには、針の型番を知る必要がある。そのために、プレーヤーの商品名をキーワードに入れて検索したら、プレーヤーの仕様やデータを記載したページがパッと出てきた。30年前に買った品物なのにである。ちなみに価格は、1979年当時で46800円と書いてあった。ずいぶん高価なものだったのである。

 この地域の電気店へ行ったなら、「もうこんな旧いものは世の中にありませんよ」などと言われそうだが、ネットのおかげでマニアックな情報が簡単に手に入る。ITのおかげで、昔の装置が蘇るというのも、面白い事だ。それにしても、レコード再生に関する装置や部品がいまだに生産され、流通しているということは、レコードを大切に保管して、聴いているマニアが、世の中にたくさん居るという証しなのだろう。

 


ーーー2/28−−− 輪島塗のお椀


 昨年11月の能登旅行の道すがら、輪島の漆器会館でお椀を二つ注文した。形は気に入っても、希望する色(外黒内朱)の在庫が無かったので、前金で払って製作を依頼した。二ケ月くらい掛かると言われたが、そんなことは気にしない。カミさんは「うちのために作ってくれるという感じがして、嬉しい」と、むしろ喜んだ。

 かなり高級なお椀である。製作途中のサンプルを見せて貰ったが、欅の木地を、2ミリ以下の薄さで挽いてあった。導管を通して陽が透けて見えた。その導管に漆を充填させることにより、強度を高める技法とのこと。ここまで薄く作るには、相当な技術が求められると思われた。

 そのお椀が、1月の中旬に届いた。立派な包装を解いて、中身を取り出すと、思った通りの素敵な品物だった。ところが、手に取ってじっくり眺めていたら、上縁の部分に僅かな欠点が見つかった。漆の飛沫がこびり付いたようなものと、塗りむらで小さな段差ができたようなものだった。これが、クレームに値する欠点と言えるかどうか、私は迷った。使い始めれば、おそらく気にならなくなるだろう。人手で作るものだから、多少の不揃いは仕方ない。手作りの味という事で、大目に見ても良いかと思った。

 ところがカミさんは、大いに不満を感じたようである。漆器会館へ電話をして、クレームした。相手は、手作業で作っているので、多少の製品むらは避けられないなどと言ったようである。しかしカミさんが「発送する前にそちらで品質を確認しましたか?」と聞くと、急に言葉を変え、「もう一度見させて下さい」と言った。そこで、二つまとめて送り返した。

 数日経ったら電話があり、やはり見過ごせない欠陥なので、修理させるとのことだった。さらに半月ほどしたら、修理から上がってきたものは、完全な状態ではなかったので、作り直させることにしたとの連絡があった。

 このようなゴタゴタの挙句、先日ようやくお椀が届いた。品物はちゃんとした出来映えだった。と言うか、本来はこのような完成度であるべきなのだと思う。これまでに購入した、別の作家の漆塗りの器も、やはりこのように丁寧な仕上がりだった。

 作り手にしてみれば、おそらくコストぎりぎりのところでやっている仕事だろうから、少々の事で文句を言われるのは不本意かも知れない。気合を入れてやる仕事、作家の名を掛けてやる制作は、一桁違う金額なのだとも思う。しかし、こちらとしては、安物のお椀だったら数十個買えるくらいの金額を払っているのだ。

 制作者にとっては、無数に作るうちの一つでも、買い手にとっては唯一の大切な品物である。その気持ちを考えれば、迂闊な事は出来ないはずである。とまあ、偉そうな事を言ったが、私の仕事も物を作って買って頂く事。こういう出来事を他山の石とせず、我が身を振り返る縁としたい。

 ところで、この顛末を、我が家へ遊びに来た友人に話した。そうしたら「まだましなほうだ」と言った。その友人は焼き物が好きで、いろいろな産地の窯元へ出掛けて行く。ある窯元を訪ねた時、並んでいた品物とは少し違ったものが欲しいと思った。それを伝えたら、職人は今度作って送りますと言った。代金は出来上がってからということだったが、その品物が、もう二十年以上経つのに、届かないと。







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